2000- 8- 2  会史編纂室資料

 

 







 

 

 会長経験者に聞く

 

 

      タイトル: 会長経験者に聞く
(当時の室長の関口穣先生が聞いたものを文書にしました)
 
 
 関口 本日は今年度の事業計画の一つ会史編纂のために、皆さんからいろいろお話し
      を伺いたいと集って頂きまし
      た。私が会史編纂の責任者です。
      今日は堅苦しい話はやめて、雑談で結構です。私のほうからいろいろ伺いますの
      が、テープにとっておいて、後日私のほうで整理しますのでご了承ください。よ
      しくお願いします。
      会長は、平野階三さんが先で、次が浅子亀次さん、田口午三郎さんの順ですか。
      司法書士の開業は何時ですが?
 平野 昭和二三年です。
 浅子 昭和二六年です。
 田口 昭和二九年です。その前に補助者の経験もあります。
 関口 まったくの畑ちがいの国鉄で、なにをやってたのですか
 田口 国鉄の法務をやっていました。
 関口 もっぱら組合の方ですか。
    この間、浦和で比留間、三角、本郷の各氏を取材したばかりです。
    大宮の高鼻町の登記所は何時ごろ移ったのですか。
 平野 昭和二九年です。
 関口 その前は、どこにあったのですか。
 浅子 駅から中央道路を通り参道に突き当たって右に浦和方面へ曲った所にあったので
    す。わたしは出来た年、昭和九年にはいったのです。
    その前は、旧岩槻新道の魚屋のそばにあったのです。
    当時は、丸山製紙工場やカタクラなどとても景気が良くて、盛んな時代でだった
    から、自分たちの都合がよく、有利な所へ作ったのです。
 浅子 明治三二年のころは、今の富士銀行の近くの大宮館という映画館のそばの繁華街
    にあったのです。
    当時の私の師匠から聞いた話では、登記所の出入りするは、紋付羽織袴を着て
    なくてはいけないので、農家の人でも何でも羽織袴を着ていったそうです。登記
    官も羽織袴でした。これは大宮だけではなかったようです。
    代書屋のところに貸衣裳屋があったそうです。経験したわけではありません。
    不動産登記法が施行された頃は、いわゆる公証制度から旧登記簿に移った頃の
    とで登記申請は平身低頭(お願い申上しあげます。)と黒の紋付袴で敬意を表し
    たわけです。下はつぎはぎの袴で、上は黒紋付でおかしな格好だったでしょうね。
    ちんどん屋だね
    司法書士も、誰が見ていようがいまいが、自宅へ帰る時は毎日登記所の方へ礼を
    して帰ったものです。
    当日は三人の司法書士がいましたが、この三人が毎朝紋付袴で内揃って「本日も
    よろしくお願いします」と所長に挨拶にいきました。
    信じられないね。
    いまでは長源とか司法書士会とかに用紙があるが、その様な用紙を自分たちで作
    りました。通信販売で強靱な和紙をさがして買ったり、苦労しました。
    本職に作らせた木版で司法書士人と入れた罫紙を手刷りで刷って、司法代書人用
    紙を作りました。からかさの紙のような丈夫なものでした。
 田口 テレビの時代劇のカワラ版みたいですね。
 浅子 報酬も今と違って、一枚いくらでした。所長さんの目がこわいから、大きい字は
    書かず、行数もきまっていました。私が入った大正九年の当時は、一枚六銭でし
    た。
 関口 当時にしては高いですね。
 浅子 一銭で何かが買えた時代ですからねえ。通常は三枚一組で、一四銭から一五銭で
    す。農家の手間が二五銭くらいですから高いですね。
    もっとも登記所で一日に五件くらいの申請で、今年は一〇〇〇件を突破したので
    監督書記さんが巡視に来て、件数も登録免許税もだいぶ上がったと話題になった
くらいです。
 田口 職員は何人くらいですか。
 浅子 二人です。即日登記、即日還付です。一生懸命筆でかきました。 横倉さん到着
    です。
 横倉 遅くなって申し訳ない。
 関口 比留間先生に聞きましたが、昔は売買登記をやると、料理屋やうなぎ屋で「本日
    は登記おめでとう。」と一杯飲んだそうですね。昔は売買も少なかったでしょう。
 田口 大宮にそのための昼飯屋がありました。
 横倉 私はね、この人(田口さん)の後支部長をやりました。
 田口 何年ごろでしたかねえ。
 横倉 四八年か四九年くらいです。当時の支部は浦和、川口、志木、上尾、鴻巣と広か
    たですね。あの頃はよかったねえ。
    平野会長のときに、浦和が、川口と志木とに分割しました。そのときの支部員も
    六人位でした。いまの浦和支部と同じくらいです。
 田口 あの頃はよかったよ。
 横倉 この間浦和の支部長に言ったですよ。今度浦和、大宮、川口の三支部で旅行
    に行こうとね。どうなっているのかな。
    あのころの志木は細沼さん、三上さん、笠原さん、岸尾さんくらいで岸尾さんは
    その後、志木支部があった頃でしょう。
 関口 成田さんもいましたね。
 須藤 あの頃の支部は、人数も少なかったが、とにかく和やかでしたよ。いまは挨拶さ
    れても、志木支部でも顔を知らないもの。
 関口 そうですねえ。
 田口 浅子さんの弟子の秩父の浜田さんも詳しいですよ。
 関口 浅子さん最後どこですか。
 浅子 最後は大宮です。区裁判所、司法事務局、法務局です。
    私は、大宮に八年、川越に四年いました。裁判所書記、司法事務官、法務庁事務
    官、法務事務官です。
 関口 いま事務官あるのかな。
 須藤 ある。いまは正式に係長ない。登記のほうがわかれて、登記官制度になった。
    課長と言っていた人が首席登記官となった。
 田口 平野会長も長かったねえ。
 平野 一六年間、八期ですね。
    川越の伊藤さんがなくなって、しかたなしにね。
 浅子 昔むかし関口八郎さんが会長のとき、私は、まだ法務局にいたときですが、関口
    会長がやってきたので、「今日はなんですか。」と言うと「浅子さん、しばらく。
    今日は司法代書人の会費を徴収して歩いているのですよ。」と言う。当時は、経
    理部、企画部なんてなくて、一種の寄合い所帯の組合だったのですね。会長自ら
    会費徴収に歩いていたのですよ。何しろ歩きだから大変だったでしょう。車も
    かったから。
 関口 田口さんが会館建設の初代委員長でしたね。
    会館建設の経緯ですが、これは歴史的なことですね。
 横倉 平野さんはよくやりましたね。あれだけの反対をくいながら
 平野 川口がよく反対してね。
 須藤 そもそも始めは、司法書士のための事務所用地をさがしていたが、「それではだ
    めだ。司法書士会館なら良い。」という大義名分で建設となったのです。
 平野 昭和四年に、法務局が現在地に移転することが、新聞に出てしまったので、僕
    はすぐ出かけ行った。法務局建設と同時に会館用地の払い下げをしてもらうため
    に法務局、法務省、大蔵省に交渉に行ったが埒があかない。そうこうしている
    ちに、法務局が現在地に工事着工し、ついに四三年には出来上がってしまった。
    しかたがないので、いまは知事を引張り出して、会計課長と交渉したわけだ。内
    閣、法務省へ四回も出かけた。とうとう会計課長も
    やっと建設地が決定したら、「浦和の法務局の方で交換しよう。」と言う。
    「太田窪の土地を買ってくれ、局長官舎用地を買ってくれ、秩父の局用地を買
    てくれ、等価交換しよう。」「いやだ。」と言ったら、浦和の法務局は、「理事会
    を召集しろ、会長が反対しても理事会が承認するだろう。」
    理事会の反対を持って行くと、局用地と秩父の局用地だけで良いと言う。
 関口 そう言う経緯があったですね。
 平野 太田窪がだめなら局長官舎、家が傾いていたのです。
 田口 法務局は出張所代替地がすくないので等価交換したがったのです。また現在地は、
    労組がテニスコートにしたいと言ってガンとしてきかない。
    畑さんも知事選挙をひかえていたので、よく運動してくれた。畑さんと一緒に行
    って、労組の委員長に「おめえら、あそこをテニスコートにしようなんて、埼玉
    の人間がただではすませないぞ!」と言ってやった。まったく冷や汗ものだった。
 平野 会館建設では、ひどい思いをしたよ。川口の総会では、大反対だった。特に川口
    は反対だった。いまになって見れば良かったと思う。
    やっと出来上がったら浦和の者だけ優先的に有料で入れろと言う。これには、も
    ともと浦和の者が入るなら反対と言うことだったのだから、相当強行な人もいた
    が
 関口 昔は、会長はどのようにして決めたのですか。
 平野 話合いですよ。理事なんかが集って話合いで「今度はお前やれ」とかね。
 関口 昔から、埼玉司法書士会では、総務部長をやった人は会長にならないですよ。
    総務部長の次は会長が普通でしょう。ジンクスがね。
 関口 経理部長は経理だけ。広報部長は広報だけだが、総務はこれだけと言うのがなく
    て、あれもこれもと全般的なことになっちゃうので、器用貧乏になっちゃうから
    でしょうかね。
 田口 会長は、顔を見て選ぶのがいいよ。「この顔がいいよ」ってね。
    対外的な面などを考えると、容姿も大切ですよ。
 平野  ぼくが、一番はじめに会長になったのは、伊藤勲が交通事故で突然死んだ時、
    「今度はお前がやれ」ということになって、会長になったのですよ。始めは、
     だれもやる人がいなかったよ。ぼくがちょっと席をたったとき、石川君の提案
     で決まっちゃった。会長になったのは、司法書士になって一五・一六年くらい
     の頃で、ちょうど法改正の時かな。
 平野 今の会長は、金はあるし、不自由しなくていいね。先は、金がなくて本当に困っ
    た。
 須藤 今は、会長だけでなく、全部の予算がいいね。
 関口 今は、八○○○万くらいかな。
    会長の予算、何百万でしょう。あまるくらいだなあ。
    会費も安かったしね。年間三五〇万から五○○万くらいでしたね。
 田口 それから、昭和二五年ごろの日本の変動期、田中内閣の頃のあの時代に、我々が、
    草の根のように育っていった過程があったのですね。
 平野 あの時分は、司法書士も少なかったし、収入もよかったね。今一部いいが会
    員全員がいいわけではないよ。
 田口 あの頃、会社設立が多くてね。有限会社とか法人にすると税金が安くなるといっ
    て、さかな屋でも八百屋でも会社にしたのよ。箱に一〇〇円札がいっぱいで、忙
     しく数えられないから家に帰ってから数えたよ。
 須藤 大宮はいつごろから仕事が増えてきたのですか。
 田口 昭和三八年くらいからでしょう。今は30人くらいいますよね。
 須藤 うちの志木支部の三上さんなどは、役所、裁判所をやめて埼玉銀行か何かに行
    いたが細沼さん一人じゃだめだというので「どうだい?」と言う事でやり始め
    たんだよ。
    その頃やそのすこし前の昭和二〇年代うは、司法書士はあまり魅力がなかった
    ですかね。
 横倉 浅子さんはいつ頃なったですか。
 浅子 二六年です。北浦和のご三家の比留間、三角、石川さんが、印紙の問題で仕事が
    できないの時、関口さんが、直にうちに来て「おれ一人じゃやりきれないから、
    その間だけでもいいから司法書士をやらないか」と誘惑にきたので
 横倉 どこの事務所にいたのですか。
 浅子 石川さんの事務所です。一人で三人分の仕事をしたね。それで、当時の登記官の
    月給よりずっといいというわけです、「これは面白い。司法書士も悪くないな。
    やってみようか。」となっただ。当時はだれもよさそうだったよ。
   司法書士になりたてだったから客が来てもいくら貰っていいか分からなくてね。
   当時は報酬表がなかったからネ。いくら取っても良いというわけでもないしね。
 浅子 関口八郎と言う会長はかなりの権力を持ったボスだったね。
 田口 役所の先輩に聞いても関口八郎というのはボスだった。
 横倉 当時は、会長兼経理部長兼総務部長だったから、そのようになってしまうのです
    ね。関口八郎さんも会費どころでなくずいぶん自腹を切ったと言う話ですね。
 平野 金がないから自腹ですよ。
    噂に聞くと、昔は会議と言うと、その後は必ず一杯だったとか。それも酒と食事
    だけじゃなく、芸者をあげてドンチャン騒ぎをしたそうですね。
    お前は仕事がある人だから沢山出せとか。志木の細沼さんは稼いでいるのだから
     金を出せとか。
    総会の大宮の清水園で「会費!」「会費!」といって集めてまわって「納めたよ」
    「そうかな?」って。。「とにかく金が無いだから出せ!」とか
    それをきちんとした人が富田さんですね。あの人は功績がある人です。
    それまでドンブリ勘定だっただからね。
 浅子 理事会の時、本郷さんが経理部長で、一人前の費用の三分の一くらいを会から払
    って、後は「たらないよ!」
    といって二〇〇〇円ぐらいづつ集めて回っていた。理事会も自前で、ほとんど会
    の金は使わなかった。
 横倉 その当時、保存登記はいくらぐらいでしたか?
 関口 二〇〇円から三〇〇円くらいじゃなかったからね。売買で八〇〇円くらいじゃ
    かったかな。
 横倉 そうすると二〇〇〇円は、かなり高かったですね。
 関口 私は若かったから取られなかったが、先輩達は高かったですね。でも、なんだか
    金もいっぱい持っていたようですよ。儲かっていたですかね。
 平野 税務署もうるさくないし、みんな残ってしまうよ。
 平野 僕が司法書士になってからも、昭和二三年頃は測量より高かったね。
    測量が三五銭のとき五〇銭くらいですもの。
 浅子 その時、比留間先生曰く「だいたい会議なんか開催しなくてもいい。あちらで一
    人こちらで一人、自由気ままにやっていればいい。」
 関口 司法書士の仕事は排他的というのはその頃からあったですね。
 須藤 お客が、嘱託人が「お祝い」といって、酒一升とかいくらか包んで置いていった
    のは、いつごろまでですかね。
    昭和四〇年くらいまでですかね。
 関口 いやあ、四〇年にはもうなかったよ。
 平野 戦前はよかったね。その頃は、お客を待たしておいて、その場で書いて登記所に
    持って行って、すぐ登記済みを貰ってきて渡す。忙しかったよ。
 平野 読み聞かせてね。よくやったよ。そんなに土地も動かなかったけど。
 横倉 抵当権なんかは、貸す人と借りる人の双方がやって来て、書類を書いて、登記所
    に提出したら金を貸すのですか?
 平野 そうです。
 浅子 昔は代理人料というのがあったね。売買の時など、双方から二〇〇円づつ貰える。
    なんかよく判らない金が貰えた。
 須藤 登記所が売買の価格を決めたのは、何時ですか?
 平野 戦後でしょう。一件いくらでなくて、一枚いくらです。
 横倉 戦後の紙の無い時はどうしたのですか。
 関口 それについては、比留間先生から取材したぶんに入っているよ。
 平野 当時は配給でした。運動した取ってきて皆に配布したんとか。和紙が無くて、ひ
    かったよ。
 平野 埼玉司法書士会では、東京でいっぱい買ってきて、印刷して使いましたよ。
 横倉 大宮あたりでは、昔取引高で印紙をもう一度使っていいと言うのがありましたね。
 横倉 いや、その再使用で何人かが刑事容疑が懸けられたのです。
 関口 あれは印紙ですね。
 横倉 私は法務省にいて、熊谷に調べに行ったら、刑事が一〇人くらい来て調査したの
    を覚えていますね。
 平野 当時は印紙を売に来ていて、ひっかかった。
 関口 しかし、一〇〇〇円を一〇〇〇くらいで売るのだから
 関口 儲かるわけですよ。
 関口 しかし、その調査は途中で打切りになったです。あれをやると法務庁、検察庁
    の偉い人が出てくるってんでね。
 平野 当時の収入印紙は紙が悪くてね。紙質そのものが悪くて偽造かどうかわからない。
 関口 スタンプでしたので、シンナーでけすと消える。蛍光燈に透かすと浮き上がって
    わかる。
 横倉 昔、登記所に印鑑を届けて置くのだが、黒い肉で届けておいて、つぎに朱肉を使
    って押していくと、違うと言われるとか聞いた事がありますが、ほんとうですか。
 平野 そうです。届けるのは赤でも黒でもいいのですが、昔は赤などなくて、あっても
    偉い人しか使えなかったのです。印影じゃなく印鑑の届けですね。
    皆さん知っていますか?昔登記所に印鑑簿の厚いのがあって、登記所で印鑑証
     明を出すのですよ。かない厚い大幅帳の見出し帳があったです。
    いまの会社と同じですね。
 横倉 肉まで持っていったですか。
 浅子 その通り。
    カウンターが高くなっていて「お願いします」とやった。
    そのために高くなっていたじゃないの?
 浅子 昔、浦和の裁判所が有った時、たしか裁判所、出張所の玄関に菊のご紋章があっ
    たね。写真でもとっとけばよかったですね。
    司法代書人、その菊のご紋に最敬礼したのかな。
 平野 昔、判決書も手で書いただよね。
 平野 昔は、登記事務は裁判所の刑事の仕事だった。
 平野 裁判所書記ではなく、登記判事といった。出張所では「登記事務取扱を命ず」と
    いう辞令を持ってないとできなかった。
 横倉 「○○出張所長を命ず」「登記事務取扱を命ず」と言う二段がまえの辞令だった。
    登記の仕事区裁判所かなり後まで判事がやっていて、司法事務局が出来る明
    治二三年ごろまでやっていたようだ。
    出張所長が病気とか出張するとかの場合はとうするのですか?
    やっぱり、登記事務取扱い命ず辞令だよ。
    裁判所に届けるのですか?
 浅子 警察ですよ。昔、代書人制度の頃は警察が調べにくるのよ。
 関口 面白いですね。
 浅子 この前、書類を出しに行ったら、田舎のおじいさんが「登記所の近くに代書人が
    いると聞いて来たが見つからない。すぐそこのうちで聞いたが、「そんなものは
    知らない」と教えてくれない。「どこにいるのか?」聞いているのよ。
   「今はね司法書士と言うのですよ。」と教えてやったよ。
    一〇年くらい前にはペンキで「代書人」と書いた看板を見ましたね。
 浅子 この前奥日光に行ったら、代書人かっとして司法書士と書いてあった。
    今でもあるですね。
 関口 三一年頃、私がお客さんに電話するとき「司法書士の関口です」といっても「え
    えっ?」面倒だから「代書人」と言うと「ああっ」とわかってくれた。
 浅子 本庁にいた須藤さんは、奮っていた。「代書ですか?」って電話があると頭にき
    て「ガッチャン!」
 関口 本郷さんも「代書さんですか?」って言うと「私は司法書士です。代書ではあり
    ません」って言っていた。
 浅子 やっぱりしょうがない。教える人も「法務局のそばに代書がいっぱいいるから、
    そこに行け」って教えるからね。
 横倉 事件簿はいつからあったのですか?
 浅子 内容は違うけど、昔からあった。
    毎月、事件簿を持って行って、所長の認証の判をもらった。枚数とか料金とか記
    載して、登記簿とあわせて、「裁判所の監督あり」という認証し、登記簿と割印
    しあった。委任状も一枚ですよ。所長のチェックですよ。
    むかし○○と言う司法書士がいて、これがどうしようもない司法書士で、提出の
    時期に、帳簿が全然ついてない。
    「裁判所がうるさいからつけろ」といっても全然つけない。「どうしているのか。
    仕事はどうしてわかるのか?」
    「ノートはある。」関口会長が「つけろ」と言うと「つけろと言うならつけるよ」
    ブツブツ言いながら二カ月つけたね。
    そうするとやっぱり当時の官庁の監督は強かったですね。
 平野 昔は警察だから、よけい監督色は強かったよ。
    その頃の事件簿を持っている人はいないですかね。
    三年で破棄だからね。
 平野 ぼくは昭和二三年からある。枚数いくらって書いてあるものならあるよ。
    もちろん戦前のものですよ。
 横倉 戦争中でも同じように書いてだしたですかね。だいたい申請することがあった
    んですかね。
 浅子 一カ月五から六件くらいあった。
 浅子亀次 当時私は大宮の所長だったが、秩父に帳簿を全部もっていっちゃったで、
    申請があると、申請書をもって秩父に行くわけ、浦和の海辺コウミユウさんが、
    川口、大宮、浦和の三カ所をまわって申請書を持って行った。ゲートルを書いて、
    軍隊式の服を着て。秩父で、地下にあった帳簿に記入して、判を押して、登記済
    を貰う。埼玉では秩父に帳簿を疎かいしていたから、秩父で登記していた。
    それは大変でしたね。
 浅子 今の人には出来ないね。土曜日になると、荒川に行って泳ぎはしなかったけど、
    遊んだ。
 須藤 登記簿が疎かいしていたなんて知らなかったね。
 平野 司法書士も戦前と戦後ではえらい違いだね。関東ブロックなんてなかったしね。
 関口 埼玉会で関ブロ大会を大宮商工ビルでやったことがありましたね。
 平野 その時、ぼくが会長だった。
 関口 司会はだれでしたか?総務部長は石川さんだった。泊るところがなくて、飯能と
    秩父に泊った。車を持っているのは僕くらいだったで、送り迎えのリハーサル
    をやりましたね。天皇陛下の行幸のようだったですね。
 関口 昭和三九年か三八年頃でした。あれ以来やってないのかな。
 横倉 土曜日休みを提唱したのは。
    田口さんですよ。
    私が部長の時「みんなが賛成しなくても、自分の所だけでやる」と言って、自分
    だけで先に始めたのよ。第二土曜日休みと言ったのは、会長のときですか?
    大宮が一番早いですね。
 横倉 会長は「やるなら勝手にやれ、おれは認可しない」と言っただよ。
    田口さんは「やれやれ」と言ってね。
 関口 各支部で決めるでしょう。そうすると休まない支部もあるから、本会事務局も休
    なって言うの。
    大宮では銀行より早く始めたのよ。役所なども土曜日は実際に人がいないですか
    らね。
    盆休みね。これから考えようってネ。
    大宮で休みにしてね。月曜日に法務局に行って、誰かが申請書をだしているかど
    うか調べると、大宮の人は真面目だね。大宮からは出てなかったよ。
 関口 しかし、司法書士はお客さんのためにあるのだから、どうしてもというときは仕
    方がないと思うよ。
    しょうがないと言うとネ、大宮の銀行もやりますので、土曜日の仕事はうちへ!
    っていう人がいてね。
    それはまずいね。
    火事場泥棒みたいなことを同業者がやるなんてね。
 横倉 うちもね。三菱銀行、富士銀行なんか、外崎さんに持っていかれたよ。
    当時はいろいろ問題がありましたよ。平野さんが印紙を売っていて、土曜日休む 
   ので、法務局からクレームがつけられたよ。「印紙だけ売れ」「いや印紙だけで
    もうるわけにはいかない」てネ。
    会長は自分が提唱しなくても、「皆がやっていることは自分も必ず守る」ってね。
    関心しましたねえ。個人的なことだけじゃなく、いろいろな面で偉い会長だった
    ね。 
  
 

 
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